Interview with Naoya Kondo (first volume)
アスリートの力と事業の親和性を模索して発足した、「UKAI Athletic Scholarship」プロジェクト。そのキッカケになった元Jリーガー、近藤直也氏を訪ね、お話を伺う機会をいただきました。お会いするのは2度目ですが、「自分を信じて継続することの大切さ、それがプロアスリートになり、それを続けられた秘訣だった。」という、以前伺った印象的な話が、『続けること』がテーマでもある自身のライフワークにも重なりました。
今回は、いまは経営者の顔を持つ氏に、特にテーマを決めず、いろいろたずねてみました。
【プロアスリートへの道のり】
———前回お会いしたのは、引退して間もなかった時期と記憶しております。あのときにお話しいただいた「とにかく信じて続けること」というお話が印象的でした。
「そうですね。サッカーを始めたときからずっと『プロになる』と決めていた気がします。振り返ると、いまではその状態が考えられないような幼少期でした。とにかくボールを蹴っていました。帰宅してからもボールを蹴っていましたから。自分の部屋で自作のコーンを相手に見立てて、壁とワンツーして、コーンをかわしてシュート(笑)。2階の僕の部屋がちょうどキッチンの真上で、母親から『ボールは外で!』と怒られることも…とにかくサッカー漬けでした。」
———プロに「なりたい」ではなく「なる」?
「どういうわけか、『なる』でした。小学校5年生のときに柏レイソルの下部組織に声をかけていただいたのですが、遠方という理由で辞退しました。プロになるためには、またとない環境を辞退し、中学3年間も地元の公立校に通学して、ある意味プロサッカーとは距離のある環境でボールを蹴っていました。ただ、「プロになる」という思いは変わらなかったです。「信じる」というよりは、むしろ「決めて」いたような、そういう意識だったような気がします。」
———周囲とは違った次元で意識を保つのはなかなか難しいのではないですか?しかもその当時14-15歳ですよね?
「普通の公立校のサッカー部でしたから、試合をしても常勝という言葉も縁遠かったですし、プロという言葉も周囲からは聞こえてこなかったです。確かに、通常は外的な要因に影響されたり、周囲の意見に左右されたりしますよね。むしろ、環境は非常に大きな要素だとは思います。ただ、当時の僕には関係なかった…『大好きなことが職業になる』『憧れの領域に到達したい』…その思いだけが自分を動かしていました。」
「中学校卒業時にレイソルユースに声をかけていただき、いよいよプロの入り口に立つのですが、卒業文集に『スタートラインに立った。ここ(レイソルユース)で一番になって、プロになる』と書いていました。生意気と捉えられるかもしれませんが、19年間プロ生活を過ごしてみて、当時の自分くらいの思いでなければ、なし得なかったとも思えます。」
———プロアスリートの凄いところはそういうところもありますよね。フィジカルの才能ももちろんですが、割と早い段階で、決断している方が多い。いまサッカースクールを経営されていて、そのようにご自身と同じような意識をもたれているような生徒さんがいらっしゃいますか?
「もちろん、プロになることだけが、スクールの目的ではないですから、いろいろなお子さんがいらっしゃっています。運動不足を解消させたいとか、友達をつくりたいとか、親御さんの様々な思いもありますし、千差万別です。中には何名か、そういう意志のコもいるとは思いますよ。その思いの強弱はあるでしょうし、内に秘めるタイプの選手はわかりづらいですけれど…僕の場合は外に出すタイプでした。自ずと表現していましたね。周囲にも要求していたし。どちらがよいとか、何が正しいとは明言できません。でも僕はそうでした。ただ、表現するかどうかは別として、誰よりも強い気持ちを持ち続けることは、何かを成し遂げるためには、必要な条件だとは思います。」
———いよいよ柏レイソルユース。プロへの登竜門に立つわけですね。メディアにもとりあげられていますが、この時期に下級生からの突き上げにあったとか?
「いやいや、突き上げなどではなく(笑)、いまなお現役で活躍する大谷秀和選手が、1学年下に入ってきて、同じ中盤のポジションだったので、試合に出られなくなったんです。ちょうど高校2年生のときですね。」
———多感な時期ですよね?例えば道を踏み外すこともなかったのですか?異性に興味をもち始める時期でも(笑)?
「女の子への興味は…ゼロではないですが(笑)、どういうわけかあまりなかったです。それよりプロになるという思いが、やはり強くて。とにかく思い続けて、チャンスを狙い続けました。道を踏み外すなんて、想像もつかない。とにかくプロになりたかったですね。」
「ちょうど高校3年生になるときに、サテライト(*1)の練習に呼ばれる機会がありました。偶然、ケガで人数足りないという事情があって…完全に「運」ですよね。そこで、1対1の練習で、どういうわけか負けなくて、当時のサテライトチームの監督がセンターバックにと、ポジションの変更をユースの監督に進言してくださいました。」
———ポジションへのこだわりとか、よく聞くような、抵抗心とか、心情的な複雑さはなかったのですか?
「なかったですね。プロになるのが目的でしたから、目的到達への近道がポジションの変更であるなら、それに従うのが合理的だと自分では思っていました。それに経験豊富な目上の方の言うことは素直に聞き入れようと、純粋に思いました。誰でもよいというわけではないですが、当時のサテライトチームの監督(*2)は、僕にとってそういう存在でした。」
「次の週から、ユースチームで再び試合に出場し始めました。大谷選手の一列後で。最後の大会までレギュラーで出場し続けました。ですから、あのコンバートがターニングポイントだったと振り返れば思います。運を手繰りよせることと、運を活かすこと、どちらもなければならないですよね。運を活かすということはつまり結果をだすことです。自分でもどうしてそうできたか説明つかない部分もありますが、とにかく愚直に思い続けたことだけは確かです。」
———ユースチームからプロへ。卒業文集に書き込んでから2年半で本当のスタートラインに立つわけですね?
「ユースチーム最後の大会は地方大会で敗退するのですが、その際にプロへの昇格が監督から告げられて…。『最後の試合に負けて悲壮感が漂っていなかったのはあなただけだった。』と両親には今でも言われます(笑)。とても複雑な心境ですよ。良い知らせと悪い結果が混在するわけですから。でも本当に嬉しかったですね。思い続けたことが結実しましたからね。喜んでもよいですよね。」
氏の話に引き込まれていました。何もテーマを決めていなかったのですが、いつしか少年時代からプロアスリートにいたるまでの話題に。自分が、同じ年齢だったときと比べて、その聡明さや意志の強さに感心する一方で、サッカーの話をする瞳は、少年時代を彷彿させるような純粋さを感じさせました。サッカーに全く詳しくない私までもが、その世界に関心を寄せさせられました(後編につづく)。