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Interview with Naoya Kondo (second volume)

さて、プロアスリートとして最初の一歩を踏み出すこととなった近藤直也氏のストーリーは、後編へ。引退された現在の心境や、他のメディアでは取り上げられていないようなことも含め、伺うことができました。
ビジネスに対する姿勢や、四子の父である自身の教育や育成に対する思い、あらためて何かに打ち込むことの大切さを語る氏の言葉から、ピッチで表現され続けた19年間とは少し異なる印象をうける内面も。
どうぞご覧ください。

【プロデビュー、そしてこれから】

———17歳のときに、Jリーガー近藤直也は誕生したのですね?
「高校3年生の夏休みから、プロチームの練習に参加しました。高校生最後の夏休み、進路が決まりましたから、受験勉強しなくてもよい(笑)(*3)。ただ、もう、サッカーについては、プロの練習に参加しても、何が何だか…何もわからないわけです。さすがにメンタルをやられそうになりました。誰かが手を差し伸べてくれるわけではなく、ここからは自力でやるしかないなと悟りました。でもよく考えると当たり前ですよね。チーム内でも鎬を削って競争するのがプロですから。その競争に勝ってこそ対戦相手にも対峙できる…求めていたのがそういう世界で、僕は好き好んでこの職業にたどりついたんです。」
「文字通り、恥も外聞もなく、たくさん聞きまくりました。先輩選手からもちろん監督やコーチからも…とにかくまずはインプットだろうと。その次は、インプットした情報の取捨選択です。ときには誤った情報を収集したり、自分に合わない方法論をとりいれたり、様々ですから。吸収したものを精査するイメージで、実践して、またインプットにつなげる。」
———PDCAサイクルを繰り返すようなものですね?
「そんな格好のよいものではないですが、ビジネス的に表現すれば、そのようなものかもしれません。ただそのときは、端的に無我夢中で、インプット・アウトプットを繰り返しました。で、そのうち気づくんです、自分にも強みがあると。僕の場合、あのサテライトでの練習時に評価された『1対1』の守備でした…プロでもこの部分は通用するなと自分でも思いましたし、これを更に武器にしようと、とにかく1対1では絶対に負けないようにしようと、心掛けました。自分達がボールを保持しているときより、対峙している相手選手がボールを保持しているときの方が、心躍りました。自分の特技を披露できる瞬間ですから。」
———プロへの道を切り開いた強みが実際に通じたということですね?その近藤直也ブランドはいつ頃評価され始めたのですか?
「評価というのは、一番難しい要素ですね。自分でするものでなく、されるものですから。プロ1年目の半年ほど経った頃には、自信が芽生えてきました。対人守備の強い先輩選手にも評価の声をいただいて、なんとなく、この世界でやれるなと。でも試合に出るわけでもなく、メディアで評価されるわけでもなく…2年目の開幕第2節に初めてその機会が訪れました。それもまた「運」なんですけれどね、ケガ人続出でチャンスが巡ってきました。」
「忘れもしません。ホームゲーム、対戦相手は鹿島アントラーズ。いや、もう頭の中は真っ白で、体はガチガチですよ。しかも当時のアントラーズはスタメンに日本代表の諸先輩が名を連ね…テレビに出ているスターと一緒に入場するわけですよ。目指していたステージでしたけれど、実際に自分が立ってみると、その舞台は何とも不思議な感覚でした。」
「先ほど、相手がボールもった方がいいと思っていたと、僕言いましたけれど、この試合に限っては、正直、『自分のサイドにボール来ないで』って真剣に思いましたから(笑)。」
———デビュー戦は無事に?
「まあ、何とか(笑)。鹿島のエウレルを抑えることができて(*4)、自信にも繋がりました。表現することは難しいのですが、自分の想像を超えた世界を体験することによって、違う景色が見えてきたというか、エウレル止められたら、他も大丈夫みたいな…メンタルが育まれるというか、やはりスポーツはメンタルの占める割合は多いなと思いますね。」

———それから19年間、Jリーガーとして、憧れていた少年時代の夢をまっとうして…プロ生活での紆余曲折は、いろいろなメディアに掲載されている通りですが…引退して、経営者としてビジネスも立派にされていらっしゃる、現在の気持ちをお聞きしたいです。
「うーん、『ゼロ』ですね。」
「あんなに熱中できたものをまた見つけたいです…いまは、それを探しています。もちろんスクール事業も一所懸命やっていて、スタートしてもう9年目を迎え、思い入れは相当強いです。頑張るスタッフやパートナー企業様にも助けられていますし、スポンサーの皆様には感謝しかありません。ただ自分があそこまで夢中になったプロサッカー選手という領域までには、まだ成熟していません。」
「ただ、僕はネガティブな意味で言っているのではないですよ。人が一生のウチにそこまで熱中できる何かを一つでも見つけることが、そんなに簡単ではないと思うのです。僕の場合はサッカーがあったので、本当に幸せなことなのかなって、いまでは思っています。何か、もう一つ見つけられれば更によいですけれどね。」
———たしかに、そうですね。脇目も振らずに19年間…いや、30年以上ですか、夢を追っていた時期も含めると。なかなか真似できることではないですよね。スクール事業の運営ももう9年目になるのですか。サッカースクールと親和性のある教育事業にも関心を持たれているとお聞きしましたが?
「そうですね。こうして、スクールにもたくさんの子供たちが来てくださっているし、僕も4人の子供の父親です。自然と『教育』というジャンルには興味がわきます。それを『事業』と捉えるかどうかは、自分の中でもまだ整理がついていませんが、関心は高いですね。」
「いろいろと関心ある分野について学んでいるフェーズです。教育と一言で表現してもいろいろですし、いまは従来型の学校教育とは別の手法に関心を持っています。いずれにせよ、まずは自分で経験することだと考えて行動しています。ボールを蹴り続けていたように、いろいろと学んで経験を積み重ねている最中です。」

———農業にも関心が?SNS拝見しましたが、こちらも模索中ですか?
「真剣に模索中です(笑)。サポートいただいている企業様の畑にお邪魔して、農業を体験しています。規格にあわない野菜を廃棄しないように加工品として流通させたり、廃棄地が結構多くあって、それを有効化させたり…これまで知らなかったような農業の側面を実際の体験を通じて見ることができています。不足する労働力という観点から、アスリートのセカンドキャリアと親和性がある気もしますし、さらなる合理化を図ることを含め、僕はビジネスチャンスとして考えています。」
「結構キツイ印象ありますよね、農業って。その通りで、相当しんどいのですが、例えば自分の畑をもつなどして参加型にすれば、興味もわくでしょうし、愛着もでてくると思います。自分の口に入る野菜を実際に育てて苦労する体験も悪くはないですし、それこそ教育の一環として取り入れても面白いかもしれません。」

———アイディアはつきないですね。いろいろ聞くことができて、楽しかったです。
さて、今回、私どものプロジェクトとして、Do Soccer Club 2期生の津田信さんを1年間サポートすることにいたしました。彼のような若い力に向けて、何か言葉をいただけますか。
「まずは、ありがとうございます。今回のこのように企画していただいたことに非常に感謝しております。申し上げたように9年目をむかえたスクール事業ですが、最初のうちは経営的なことを何もわからず模索しながらのスタートでしたから、僕にとっても当初から来てくれている2期生ともなると思い入れもあります。その彼らの成長していく様は、自分にとっても励みになりますし、そこをサポートしていただく企画なんて、嬉しい限りです。」
「彼らに対しては、とにかく気持ちが大切であることを伝えたいです。誰よりも強く思い続けることを心掛けてほしいです。そしてそれを表現すること…努力して結果をだすことですね。言うまでもないことですが、人と同じことをやっていても競争に勝つのは難しいです。どこまでいっても自分次第、常に自分と向き合ってほしいです。」

インタビューが終わる頃、あたりは暗くなり、Doフットボールパークにナイター用の照明が灯っていました。フィールドは、ボールを蹴る中学生くらいの背丈の少年たちで、活気に満ちています。氏の言葉を借りれば、熱中できる何かがあるだけで幸せな人生なのでしょう。でも自身を振り返っても、それほどの熱を注げる何かがあったわけではありません。多くの人がその何かを探せずに一生を終えるのかもしれません。ただ、熱中している誰かを応援したり、寄り添ったりする人生もあってよいと思います。週末スタジアムに足を運んで勇気をもらうのもいいでしょう。贔屓の選手が欧州のビッグクラブに移籍するのを夢見るのもいいでしょう。迸る熱量の若い力を応援するプロジェクト、「UKAI Athletic Scholarship」が支持され続けることを願うばかりです。

*3:県内屈指の進学校である茨城県立竹園高校に通学。
*4:2003年Jリーグ1stステージ第2節で柏レイソルはホームに鹿島アントラーズをむかえる。当時日本代表をずらりと並べる布陣のアントラーズ相手に近藤氏は3バックの1角として出場、試合は1-2で敗れるが、終了間際の84分に交代で退くまで、本人談の通りマークしたエウレルを完封した。